大日如来とは?
〔大日如来像〕
大日如来は2種類あり、両手を胸の前で智拳印を結んだ【知徳・金剛界】の大日如来と膝の上に両手を重ね法界定印を結んだ【慈悲・胎蔵界】の大日如来です。正しくは大日如来毘盧遮那仏と言い、大宇宙の帝王・諸仏の王と崇められ、十三仏の掛け軸でもお馴染の仏様です。静かに両手を合せ ヲン アビラ ウンケン ソワカ と三回唱え、念じます。身心清浄にして一心に祈願すれば所願成就の仏さまです。 良い御縁をお結び下さい。
さてこの大日如来の御身体でありますが、桧造りの座像で髪際高五十センチ、頭に宝冠を被り宝髪に結い豊頬、円満、温顔で、胸に瓔珞を飾り、腕輪をつけ一見菩薩さまのようなお姿をしています。 鎌倉時代の作とも江戸時代初期の作とも伝われていますが、詳細は不明であります。
〔三浦新介〕
源頼朝が富士の裾野で狩をしていた時 家来の三浦新介は獲物の狐の命を助けたことから(曽我物語・源頼朝の富士の巻狩の話)頼朝の怒りに触れ 空うつろろ舟(小舟)に乗せられ沖へと流されてしまいました。
舟は波間を幾昼夜も漂い、流れ着いたのがお堂向いの国府の宮潟浦でした。白狐たちも命の恩人新介を追いかけました。しかし途中で一匹・二匹と死に、子狐一匹と母狐が宮潟浦まで辿り着きましたが、ついに息絶えてしまいました。
それを知った国府の村人達が哀れんで、宮潟浦の大日堂が見渡せる岡の上に母白狐と子白狐の塚を造って祀ってあげたそうです。(国府・宮潟に実在します)その時新介の持っていた獅子頭が、国府の神社の宝物となり現在に至っているそうです。
そして新介の兜の中にあった守り本尊を三ケ所の漁師が拾い上げました。それは一寸八分の金無垢の大日如来像であり、それがこの大日如来の身体に入っているとか、いないとか・・・、真実は定かではありませんが、このような話が語り継がれている事からすれば鎌倉時代の作と言うのが有力でしょうか。
〔大日堂〕
村落から南に離れた西の浦に面した森の中にそのお堂はあります。杉木立に覆われ鬱蒼とした境内の苔と風化したお堂の板囲いに長い時の移ろいを感じます。
苔深く 木立の堂に あるうちは 我もしばしの 昔人なる
お堂西側(向って左)軒下には天保四年に当区の俳諧師の志月庵歌流、休花庵一亀、 和水庵文虎、楊柳館寿実の四人が奉納した連歌が掲げてあります。すでにこの頃から、句を詠む地区の先人がいたと言うことに驚きと誇りを感じます。
昔は像座山・大日寺と称し、真言宗の寺院でした。が天明二年(一七八二年)現在の栖雲寺の堂宇となったのです。その栖雲寺も大正七年(一九一七年)大日山・栖雲寺と改め現在に至っています。また、この地を像座と称するのも山号の像座山によるものです。 海上より正面の石階段を上り大鳥居を潜りお参りするのが本道であると言います。
堂前から海上に這うように長さ二十メートルにも及ぶ【竜灯の松】と言われる大松がありました。いろいろな伝説を秘めていましたが、惜しくも数十年前台風の災禍に遭い枯死してしまいました。
〔格絵馬天井〕
堂内の挌天井には、極彩色で描かれた花鳥図四七枚がはめこまれ、《奉献愚筆四十有七葉于時文政甲申七年十月二十一日於客館写藤崎一子》とあります。
絵は諸国廻船名や女人の名前などで寄進されていて、対岸の的矢と共に避難港として賑わった当時の面影や心情が偲ばれます。近在の絵馬天井で、年代も奉納者も絵師も判っているのはここ三ケ所・大日堂だけです。
このお堂の格絵馬天井は文化財のみならず、芸術的価値も高く評価されています。
大日如来は2種類あり、両手を胸の前で智拳印を結んだ【知徳・金剛界】の大日如来と膝の上に両手を重ね法界定印を結んだ【慈悲・胎蔵界】の大日如来です。正しくは大日如来毘盧遮那仏と言い、大宇宙の帝王・諸仏の王と崇められ、十三仏の掛け軸でもお馴染の仏様です。静かに両手を合せ ヲン アビラ ウンケン ソワカ と三回唱え、念じます。身心清浄にして一心に祈願すれば所願成就の仏さまです。 良い御縁をお結び下さい。
さてこの大日如来の御身体でありますが、桧造りの座像で髪際高五十センチ、頭に宝冠を被り宝髪に結い豊頬、円満、温顔で、胸に瓔珞を飾り、腕輪をつけ一見菩薩さまのようなお姿をしています。 鎌倉時代の作とも江戸時代初期の作とも伝われていますが、詳細は不明であります。
〔三浦新介〕
源頼朝が富士の裾野で狩をしていた時 家来の三浦新介は獲物の狐の命を助けたことから(曽我物語・源頼朝の富士の巻狩の話)頼朝の怒りに触れ 空うつろろ舟(小舟)に乗せられ沖へと流されてしまいました。
舟は波間を幾昼夜も漂い、流れ着いたのがお堂向いの国府の宮潟浦でした。白狐たちも命の恩人新介を追いかけました。しかし途中で一匹・二匹と死に、子狐一匹と母狐が宮潟浦まで辿り着きましたが、ついに息絶えてしまいました。
それを知った国府の村人達が哀れんで、宮潟浦の大日堂が見渡せる岡の上に母白狐と子白狐の塚を造って祀ってあげたそうです。(国府・宮潟に実在します)その時新介の持っていた獅子頭が、国府の神社の宝物となり現在に至っているそうです。
そして新介の兜の中にあった守り本尊を三ケ所の漁師が拾い上げました。それは一寸八分の金無垢の大日如来像であり、それがこの大日如来の身体に入っているとか、いないとか・・・、真実は定かではありませんが、このような話が語り継がれている事からすれば鎌倉時代の作と言うのが有力でしょうか。
〔大日堂〕

村落から南に離れた西の浦に面した森の中にそのお堂はあります。杉木立に覆われ鬱蒼とした境内の苔と風化したお堂の板囲いに長い時の移ろいを感じます。
苔深く 木立の堂に あるうちは 我もしばしの 昔人なる
お堂西側(向って左)軒下には天保四年に当区の俳諧師の志月庵歌流、休花庵一亀、 和水庵文虎、楊柳館寿実の四人が奉納した連歌が掲げてあります。すでにこの頃から、句を詠む地区の先人がいたと言うことに驚きと誇りを感じます。
昔は像座山・大日寺と称し、真言宗の寺院でした。が天明二年(一七八二年)現在の栖雲寺の堂宇となったのです。その栖雲寺も大正七年(一九一七年)大日山・栖雲寺と改め現在に至っています。また、この地を像座と称するのも山号の像座山によるものです。 海上より正面の石階段を上り大鳥居を潜りお参りするのが本道であると言います。
堂前から海上に這うように長さ二十メートルにも及ぶ【竜灯の松】と言われる大松がありました。いろいろな伝説を秘めていましたが、惜しくも数十年前台風の災禍に遭い枯死してしまいました。
〔格絵馬天井〕
堂内の挌天井には、極彩色で描かれた花鳥図四七枚がはめこまれ、《奉献愚筆四十有七葉于時文政甲申七年十月二十一日於客館写藤崎一子》とあります。
絵は諸国廻船名や女人の名前などで寄進されていて、対岸の的矢と共に避難港として賑わった当時の面影や心情が偲ばれます。近在の絵馬天井で、年代も奉納者も絵師も判っているのはここ三ケ所・大日堂だけです。
このお堂の格絵馬天井は文化財のみならず、芸術的価値も高く評価されています。
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